昭和41年10月17日 夜の御理解
信心は神様のご承知の世界に生き抜くことなんです。ですから人情ではおかげは受けられません。どこまでもやはり神情一筋でいかなければなりませんけれども。それというてやはり人間の世界にも、いよいよ通じる。人と人との心の上にも通じるという、それでなからなければならん。神様だけがご承知だから人間は知らんでも、とこう思うのですけれども。やはり人間にも分かってもらわなければ、本当のおかげにはならん。やはり神徳人徳ということを申します。神徳人徳が足ろうていかなければおかげにはならん。いわゆる、神様の御信用と人からの信用というわけなんです。
昨日、私、変な気持ちがしたんですけれども。ある方が椛目の御大祭の時に、いつもはよその教会のある方が、度々参られる方があるんですね。その方がその言われるんです。お供えの、いつもあの、金樽の四つ、お供えがありますよね。本当に見事だったあれがね。けども、あれは甕だけで中はまぁ、二級酒かなんかば入れちゃあると、というふうに、度々入れ替えござるというふうに言われるんですね。
というて私は、言い訳をしょうとも思いませんでしたけれど。椛目の人は知っておるということは、これは実際見ておるから知っておるんであって、知らない人はひよっとしたら、そういうふうに思ってあるかもしれん。あれを聞いたら、三千五百円からするそうですね。あの一甕が、ですから、四つというとやっぱり一万円以上になる。ですからなるほどそう思われるのも無理はない。
信心の薄い人、信心のない人はそう思われるのも無理はないけれども。けども、神様だけはご承知でしょうが。これは正真正銘、灘の超菊正で、しかも、これは生酒と申しますね、生です。まぁ、いうなら、天下に、この酒ありと知られた酒なんです。灘の菊正といえばですね。しかも、その菊正の超特級の上の、まいっちょの特級なんですね、これは。超特級はまだ、火入れない、生の酒です。
それが私の方では御大祭たんべんに、またはお正月たんべんに、お供え頂きますから、ああして御供えさせて頂くんですけども。知らない人は、椛目には見事なんだけれど、あれは甕だけを、こう、甕に、他の酒を入れてあるとじゃろうと、こういうふうに思う。それは知ってもらわなきゃならんという事もないけれどです。はぁ、とても椛目はそんなこっちゃないと、椛目の御比礼ていうのは、ほんなこつ言うならね、たとえ、金の甕だけではない、四つ、五つだけじゃない、それより以上の物がお供えできるのだけれど、形の上においては、あれより最高のことは出来ないのだと。
あれは度々、あそこの信心、あそこの生き方でいくならば、あれは正真正銘のあれは本当の御神酒だというふうにです。皆さんが分かってもらえるところまでには、私自身が、やはり、おかげを受けなければならないということ。神様は分かってござる、神様は間違いないんのだ。人間のほうが、あれは違うとじゃろうとこう言うておる。結局、ほんなら、それを、いいえ、と言うて私が、その、言い訳したところで仕方がない。言い訳して分かってもらったところで、ほんなもんじゃない。
そこんところにです、結局、私が人から受ける信用というのが、それだけ不足しておるということを悟る以外にはないのです。信心は、どこまでも、人情ではおかげは受けれれん。おかげが受けられんということは、いわゆる神様からの御信用を、いよいよ頂いていくことは出来ないという事です。ですから、いわば、真心一つ、神情ひとつ、誰が何というても、誰が知ってくれないでも、人が悪口言うておっても神様だけがご承知の世界に、それこそ、まっしぐらに、その道を歩かして頂く以外にない。
しかもそれを頂き抜かなければいけない。頂きぬくということは、神様もお分かりなら、また、人間氏子も分かってもらえる時が、私は頂きぬいたときだとこう思うのです。まして、椛目で御信心を頂いている私どもは。これは問題は、私の信心を本当にそうだと分かってもらわなければ、おかげを受けられんのです。先生のおっしゃることは間違いないと。先生のおっしゃることは、そのまま神様のおしゃることと同じだという確信を皆さんが持ってもらわないことにはです、そういうおかげになってこないて。
神は信ずるものを信ずると仰るが、本当に親先生を信ずるというとその心が、そのままおかげになるのです。けども私自身が分からない。私自身が信じていないことをです。皆さんに、いかに信じてもらっても、そりゃおかげになりますまい。ですから私がいよいよ、神様に信ずる力を頂くために、神様にいよいよ神様だけは、分かって頂く信心の世界に、神様だけはご承知の世界に、私がもっともっと、まっしぐらに突き進んでいく以外にない。そしてそこんとこを頂きぬかしていかなければならない。
そこに、十人の人が分かってくる、二十人の人が分かってくる、皆の周囲に、皆がそれを分かってくるというように、分かってくる範囲が多いだけ、椛目の御ひれいが大きいということになってくるのです。どうでも、ひとつ、お互いが神様を信じて疑わない、生き方の中には、場合によっては、悪口を言われる場合があるかもしれません。悪口も実に極端なんです。泥棒もしとらんのに、泥棒じゃとか。乞食もしとらんのに、貰うて歩かんのに乞食じゃとか、と言われるようなことがあるかも知らんけれども。
人は泥棒だと言うても、乞食だというても腹を立てるな、神が見ておる。顔は神が洗うてやるとおっしゃる。これは、私のまだ小さい世界の、私が神様を信じる世界の小さい時代。それが様々に、私のことを、色々非難があったんです。その非難のあった人達が、段々そうではないことが分かってきてから、いわば、その大坪さんの言われることは間違いなかった、とこう分かってきたということは、いわば、私は神様から顔を洗って頂きよるのと同じことなんです。
そういう世界がです、いわば、一里四方から二里四方、二里四方から三里四方と分かっていただけるようなおかげを頂くために、どこまでも一つ、頂きぬかなければいけないということ。信心にならなければいけんのです。わが心がいよいよ神に向かわなければいかんのです。その向かった、その神様の、向かうその心を育てていくための、工夫がなさなければいけんです。
こうしたならば、あの人が笑うだろう。こうすることが本当だけれども。こういうことでは、おかげは受けられん。神様の御信用と言うね、御神徳を頂くためには、私はなんと言うても、神様の仰せには背かれませんという信心。先生が、あぁ仰るから、それに私に一途に突き進んでいく信心。そこんところを頂きぬかせて頂いて、初めて、私なら私を、本当に知ってもらえる。いわば、人が段々多くなっていく、神様の御信用が増していくに従って、私を本当に信じて下さるようになった。
昨日、私はそんなことを聞きましてね、椛目の金樽は、あれは樽だけで、中身は二級酒かなんか入れよんなさるとじゃろうと。そらそう思うのも無理はない、御三宝一台が一万何千円かかるんですものね。だから普通のことから考えたら、そうかもしれませんけども、ほんなら、椛目で御三宝一台で一万何千円というのは、ざらですよね、実をいうたら。けれども、中身を皆さんは、それを知っておるぐらいだから、まあ正真正銘のそれだと思うけれども。
知らない人は、それを信じきらないわけです。というて、ほんなら、私が信じなさいと言うただけではいけんのだから、言い訳をして信じてもらったんではいけんのですから、言わず語らずの中に信じてもらうと、いよいよ私が、もっともっと、おかげを受けていかなければいいけないということは、もっともっと、神様に信じられる私になるために、それこそ、神様だけがご承知の世界に生き抜くことなんだ。
裏もなければ表もない、表だけは、立派にやって行くけども、裏はつまらんというのでなくです。裏もなければ表もない、いや、いつも人が見てない裏の生き方こそ、立派に生き抜かせていただくというような信心。それを神様だけがご承知の世界に生き抜くことだとこう、今日は申しましたですね。どうぞ信心とは神様だけがご承知の世界に生き抜くこと。ですから、そこを生きぬかにゃいかん、いや人にも、そこを信じてもらえるところまでおかげいただかにゃいけんと思うですね。
どうぞ。